「良いもの」を選ぶことにとらわれていた、と気づいたときの話

はじめに

化粧品や食べ物など、体に直接触れるものは、いろいろと調べたうえで、「良いもの」「良いとされるもの」を自分なりに見定め、長い間、その「良いものカテゴリー」の中から、自分に合うものを探して購入してきました。

でも最近、こう思うようになりました。


本当に自分に合うものが、自分が良いと信じてきたカテゴリーの外側にも少なからずあるのではないか。それに気づけなかったのは、「これは選ばないもの」「選んではいけないもの」と思い込みすぎて、そもそも選択肢に入れていなかったからなのだと。


意識して避けていたというより、もはや疑いもなく外していたのだと思います。


そう思うきっかけとなったのが、いままでだったら「絶対に使わない」タイプのシャンプーと洗顔料を、最近になってたまたま使ってみた経験からでした。

アミノ酸シャンプー一辺倒

わたしは、かれこれ20年以上、地肌にやさしいとされるアミノ酸シャンプーを使い続けてきました。高級アルコール系シャンプーは、安価な素材が使われ、洗浄力もかなり強いことから、肌への刺激も強く、時に必要な潤いまで取り除いてしまうことに懸念を抱いて。

さまざまなメーカーや配合のアミノ酸シャンプーを使用してきましたが、どれも頭皮のかゆみやベタつき、臭いがなんとなく気になってはいました。でも明確に合わなかったわけではありません。


ただ、なんとなく満足感が得られず、違和感を感じながらも、それでも「これは良質なシャンプーだから」と信じて使い続けていたのです。「脂性肌だから仕方ない」となかば割り切って。

実家でのシャンプー体験

そんなある日、実家に滞在していたとき、やむを得ず母の愛用している高級アルコール系のシャンプー、Luxを使うことになりました。
普段なら「絶対に使わない」シャンプーです。


嫌だなあと思いながらも使ってみると、思いのほか、その後の使用感がなかなか良いではないですか。すっきりさっぱり感が長く続き、頭皮のかゆみやベタつきも落ち着いたように感じました。


長年拒絶していたシャンプーが、あまりにしっくりきたので拍子抜けしてしまいましたが、自分に合ったその感覚を素直に信じ、そのあともしばらく使い続けてみることにしたのです。


抵抗はありつつも快適さには敵わなかったのでしょう。結果、今では半年以上そのまま使い続けています。

さらに最近、洗顔フォームでも同じような体験をしました。これまた母がずっと使っていた、昔ながらの素朴な固形石鹸。

「こんなもので顔を洗うなんて…」とシャンプー同様否定的だったのですが、もしやと思い、試しに固形石鹸を使ってみたところ…


洗いあがりの顔のトーンが明るくなり、スッキリさっぱりしてとても気持ちが良かったのです。最初こそ少し突っ張る感じがありましたが、それもすぐに気にならなくなりました。

結果的に、肌への刺激が強いから良くないと、選択肢にさえ入れていなかった高級アルコール系シャンプーや昔ながらの固形石鹸が、私にはすこぶる合っていたのです。


自分に合っていたものと、良いと思っていたものが一致しなかったこともあって、なんだか複雑な気持ちに包まれてしまいました。

いままで費やしてきた投資はなんだったのか。私が信じてきたものが、あっさりと音を立てていとも簡単に崩れていきました。

単に「合う」「合わない」ではなく

私はこれまで、自分に合った「良質なものを選んでいる」という意識を持ってきたつもりでした。

でも、


「良いとされるものの中からしか選ばない」

「良いものをちゃんと選べる人でありたい」

そんな前提や姿勢に、無意識に縛られていたのだと気づいたのです。


良いものを選ぼうとする心構えは確かに大切。
ただその意識が強すぎると、なんとなく違和感を感じても「これがベストなはず」と思い込んで見ないふりをしてしまったり、合うかどうかを試す前に、良いもの以外を無意識に選択肢から外してしまいます。


実際、高級アルコール系シャンプーや固形石鹸をもっと早く試していれば、その良さに気づけていたはずなのです。


大事なのは、「良い」とされているかではなく、自分にとってどうかという素直な感覚。
ちゃんと試して、ちゃんと感じて、選ぶこと。


思い込みやイメージにとらわれていて、その視点がすっかり抜けていました。

農業にも存在する思い込み

今回のような思い込みは、農業の分野でも似たところがあるかもしれません。

たとえば、化学肥料や農薬は100%悪だから有機でなければ、という思いが強くなりすぎると、目の前で起こっている事象に適切に対処できないなんてこともあるかもしれません。


私たちが現在、化学肥料や農薬を使わない理由は、いくつかの懸念材料があるからです。そしてそれは同時に、理念を示すためでもあります。でも、それが過剰なこだわりになって、他の選択肢や柔軟性を失ってしまうのもどうなのかなと。


また、消費者に対しても、「不使用」であることを過剰に美化してしまえば、かえって本質から目をそらすことになりかねません。

ありたい姿勢を貫くこと。本質を見ること。


どちらも大事にしながら、状況に応じて必要な判断をしていく。そういった広い視野を持っていくことも大事なのかもと、今回の出来事を通して考えなおしました。

最後に

合うものを使うのはあたりまえだし、みなさんもきっとそうされていると思います。

でも、自分ではちゃんと選んでいるつもりでも、いつの間にか情報やイメージによって、無意識に選択肢を狭めてしまっていることもあります。


こだわりは大切。でもそれが、根拠のない思い込みになっていないか。時々、自分に問い直してみることも必要です。


「これ、本当にわたしに合ってるのかな。」


そんなふうに、身の回りのものを棚卸しする時間を持つことで、意外な発見があるかもしれません。


数ある情報の中で、なにをどう信じるか、どう感じるかは人それぞれですが、どれだけ「良い」とされていても、自分にとって合うのかどうかという視点は忘れずにいたいです。


そうやって、かっこつけずに自分にとって心地よいものを見つけていけたら ― それが、自分を大切にすることにも、きっとつながっていくのだと思っています。

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